out of control  

  


   3

 慌しくセリノスを飛び出した俺に何人かの鷹と鴉の兵が驚いて声を掛けてきたものの、それは「ちょっと急ぎたい書状があるんだ」の一言で切り抜けた。
 こんな時でもそれなりに落ち着いた声で話せるのはしょうもねぇ苦労の賜物だな。……有難くはないがね。
 とりあえず勢いで誤解を解いておけとは言ったものの、この場合ティバーンは加害者だからな。少し考えればそんなことをするようなヤツじゃないとわかるだろうが、多少難しいかも知れない。
 むしろあの男がどんな弁解をするのか聞いてみたいような気もするが、なんとなく俺がいると余計にややこしくなるんじゃないかって不安も捨て切れない。
 第一、ニアルチとシーカーにどんな顔をして説明したものか、それを思うと落ち着いたはずの血の気がまた上がりそうだった。
 ニアルチは生まれた時からの付き合いで俺のことは大抵なんでも知ってるからまだいいが、シーカーはな。そんな心配をさせちまって情けないやら恥ずかしいやら。
 まあ実際二人の顔を見たら、いつものようになんでもない顔でそんな事実はないと言ってみせるがね。

「おい、コラ!」

 眼下に広がる広大なセリノスの森の緑を眺めながら一路クリミアを目指して飛んでいると、背後から聞きなれた声がした。
 近づいてくる軽い羽ばたきの音には気がついてたんだが、故意に無視してたんだ。諦めるかと思ったが、案外しつこかったな。

「待てって、鴉王!」

 小柄な割にこの鷹の翼は早くて強い。それほど飛ばない内に頭上から回り込んだ鷹が淡い光を発して翼を生やした小柄な人型になった。
 鳥翼王の右腕、「目」と呼ばれるヤナフだ。

「ったく、ずっとおれが追ってたのに気づいてなかったわけじゃねぇだろが!? 本当に根性が悪ィな!」
「考え事をしてたんでね。それで、俺になにか用でも?」

 ガキのような見かけだが、中身は違う。妙なことを気取られないよう冷たく答えると、ヤナフは大げさなため息をついて「ほらよ」となにかを差し出した。
 肩から斜めがけにした荷物袋から取り出したのは、白い布巾に包まれたものだ。匂いからすると、さっき食べ損ねたパンだな。

「……それをどうしろと?」
「食えって意味に決まってんじゃねぇか! 弁当だよ。昼飯も食ってねぇんだろ?」
「ああ、そういえば食べ損ねた」
「ったく、だからあんたはそんなにガリガリなんだ。その内浮いたあばらを楽器にされるぜ」
「生憎だが、俺の肋骨はそこまで愉快に浮いてない。そっちこそいつまでも小さいんだから余分に食ったらどうなんだ?」

 差し出されたものを押し返して言うと、とたんにヤナフの目に剣呑な光がきらめいた。
 先に人の身体についてとやかく言ったのは向こうだからな。俺が遠慮しなきゃならん道理はない。

「本っ当に可愛くねぇな…!」
「はン、俺が可愛くてなんの役に立つのか訊きたいね」
「雷が怖いっておれを小便まみれにしたこともあるくせに」
「!?」

 面倒だ。化身してさっさと行っちまおう。
 そう思ったところで吐き捨てるように言われた内容に、俺は目を剥いて身体ごと小柄な鷹を振り返った。

「なんだぁ? ひょっとして忘れちまったのか? ラグズ随一の頭脳が自慢の鴉王ともあろう者がよ」
「な…んのことだ?」

 覚えがない。……ような気がする。
 雷は、そりゃ、悲鳴なんか上げたりしないが今でも怖いさ。鳥翼族は誰だってそうだ。雷が鳴ってる時に飛ぶと落雷で死ぬ危険があるからな。
 しかし、今こいつが言いやがったのはそんな話じゃないぞ。

「ちッ、本気で覚えてねぇのかよ。セリノスでガキの頃何回か会っただろうが。そん時にたまたま嵐の夜があって、怖くて便所に行けねぇってあんたが廊下で泣いてたから人が親切に抱えて連れて行ってやったのに、でかい一発でちびりやがって。おかげでおれはあの後あんたを洗わなきゃならねぇわ、着替えもさせなきゃならねぇわ、自分もびしょ濡れだわで夜中だってのにどんだけ大変だったと……」
「もういい!」

 クソ、これだから年寄りは嫌なんだ。いつまでも人の昔話で恥をかかせやがって!
 なんとか顔に上ろうとする血の気を押さえ込んで遮ったが、動揺は見抜かれたようだ。
 きょとんと目を丸くしたヤナフは、黙ってりゃ可愛いといってもいいようなツラににやりとおっさんっぽい笑みを浮かべて、わざわざ下から俺の顔を覗き込んできやがった。

「あっれぇ? ちょっとは思い出したかぁ? あの後、王とラフィエル王子が騒ぎを聞きつけて来てあんたを慰めたのも?」
「知らん。そんなガキの頃のことでどうこう言われたところで、責任は取れんぞ」
「ばーか、なんの責任だよ。ま、あの頃はニアルチのじいさんもちょくちょく忙しかったから、おれに見つかったのは運が悪かったってとこだな」

 そう言ってけらけら笑うと、ヤナフはそれで気が済んだように俺に並んで飛び始めた。押し付け合いになった弁当は、結局またヤナフの荷物袋の中だ。

「おい、なんでついて来るんだ? おまえはクリミアに用なんかないだろう?」
「おれがどこを飛ぼうがおれの勝手だろ。とりあえずこの弁当が傷む前にあんたに食わせるまでがおれの仕事だ。でなけりゃ、リアーネ姫が悲しまれるからな」
「……リアーネが持たせたのか」
「ああ。ご自分であんたに届けようとなさったところを王が指示した。鴉は食い物に困ってたんだから、その王が食い物を粗末になんてしねぇよなあ?」

 ああ言えばこう言うとはこのことだな。
 ティバーンの腰巾着になにを言われようが屁でもないが、確かに食い物に罪はない。
 それに、必死に俺に食わせようとしていたリアーネを思い出すと、どうしてもヤナフを追い返す気にはなれなかった。

「わかった。弁当は受け取る」
「ああ、いいって。あんたに食わせるまでがおれの仕事だって言ったろ? このまま渡してまた物思いに耽られて腐ったあとに食われでもしたら、姫にも申しわけねえからな」
「あのな、俺がそんな間抜けに見えるのか?」

 さすがに視線をきつくして文句を返すと、ヤナフはまたにやっと笑って「なんなら、今すぐ食うか?」と言われた。

「今からって……どこでだ?」
「飛びながらだよ。パンなんだから食えるだろ」
「おまえもティバーンと同じか。それこそ食い物に失礼だろ」

 仕方がない。どこか適当なところで食事の時間を取るか。
 そう思って言ったんだが、ヤナフはまた目を丸くしてから大きな声で笑い出したんだ。ばんばん無遠慮に俺の背中を叩きながら。

「はっはっは! やっぱあんたはいつまでたっても『ぼっちゃま』だな!」
「意味がわからん。痛いから叩くな」

 それこそいつまでも見てくれがガキのままのヤツに言われたくないね。
 だが、言ったところでまたうるさく言い返されるだけだろう。だから俺はうんざりと小さなため息をついただけでそれっきり黙りこみ、おとなしく落ち着ける場所を探し始めた。………んだが。
 そうだった。ヤナフは「千里眼」の持ち主だ。
 俺が探すまでもなくすぐに適当な場所を見つけられて、そこで短い食事休憩を取ることになった。
 クリミアの北端にあたる小さな岩山の崖だ。手頃な岩だなに座り、開いた布巾に包まれていたのは大きなパンが二つ。俺が食べかけていたチーズと野菜のものと、俺の歯で噛み切れるかしばらく悩むほどの大きな肉がはさまったパン。後者は鷹向きだ。
 包みを開けたとたんよだれをたらしそうになっていたヤナフも腹が減ってることはわかったから、俺はさっさと肉の方を押し付けて遅い昼食を摂った。

「あんた、気前いいなー! こんな肉、おれたちだってなかなか食えないぜ?」
「鴉は確かに雑食だが、肉ばかりで生きられるわけじゃない。だったら好きなヤツが食った方が肉も喜ぶだろ」

 それで納得したかどうかはわからないが、やっぱり鷹だな。
 身体の大きさは違っても、親分の鷹と似たいかにも丈夫そうな歯で分厚い肉を引きちぎって食う様はまさに猛禽だ。
 ……そういや、あのガリアの赤獅子、スクリミルも肉を食う時は豪快だったな。下手すりゃ骨までバリボリ噛み砕きそうな勢いで食ってたのを思い出した。

「ああ、そうそう。水もあるからな」
「……そりゃ有難いことで」

 投げやりに答えて半分水を飲むと、ヤナフの方も自分のものらしい水筒を取り出した。小さな緑色の瓶は、鷹の好むきつい果実酒だ。

「まだ真昼間だぞ」
「こらこら、時間に正確じゃねぇと王は務まらねえぜ。もう夕暮れ前って言った方がいいな。大体、おれたちにとっちゃこんなもん水と同じだ」

 総じて鷹は酒に強い。中でもヤナフは群を抜いたうわばみで、ティバーンより強いと聞いたことがある。
 この小柄な身体のどこにそんな代謝能力があるのか謎だ。
 身体が丈夫な分、内臓も丈夫なんだろう。そう思って布巾で手を拭いて最後に水を飲み干すと、俺は膝のパンくずを払って立ち上がった。

「じゃあな」
「あ、待てよ!」

 肉と酒。極めて鷹らしい食事を終えたヤナフの方は帰るだろうと思って羽ばたいたところで、なぜかまたついてきた。

「……まだなにか用があるのか?」
「だから、おれがどこに行こうがおれの勝手だろうがよ。午後の予定はないしいっしょにクリミアへ……ん?」
「なんだ?」

 うんざりと振り返った先で、ぐだぐだと言い募っていたヤナフの目の瞳孔が一瞬細くなる。
 自身の翼と良く似た色のその目は、今きっと俺が及びも付かないような遠くを見てるはずだ。
 気にはなったが、教えられるまでわからないからな。そのまましばらく待っていたら、軽く小首をかしげたヤナフが言った。

「雨……みたいだな」
「みたいとは? 降りそうな状態って意味か?」
「ああ、いや……。降ってる。なんか妙に雨雲の位置が低い気がしたんだよ。それに、昨日見た感じじゃ雨なんか降りそうもなかった気がしたんだけどなあ」
「千里眼は遠くの空の様子がわかるだけで天気を読む力じゃないだろ。書類は全部油紙で包んであるから心配ない。このまま行く」
「んー、もろに雨の中に突っ込むことになるぜ?」
「慣れてるさ」

 雨だろうが風だろうが雪だろうが、果ては雷の酷い大嵐の日だって俺は飛んだ。いや、飛ばされた。
 少なくとも雷に打たれる心配がないなら充分恵まれた天候だ。
 それがわかっていたから、俺は気にせずそのまま真っ直ぐに飛んだ。さすがに帰るだろうと思ったヤナフまでついて来たのは意外だったが、確かにこいつがどうしようがそれは俺には関係ない。好きにすればいいと思ったんだ。
 だが、辺りが暗くなり始めていよいよその雨雲に近づいた頃、ふとなにかに呼ばれたような気がして、無意識に俺は空中で止まった。

「鴉王! マジで濡れるぞ! ……どうしたんだよ?」
「いや、……なんでもない、な」
「は?」

 気のせいか。………そうだな。誰も俺を呼んでいない。
 妙に境界線のはっきりした雨雲は、まるでそこに突然現れたような不自然さだ。
 だが、俺たちはベオクと違う。空を飛べる分雨の境界線には意外にそんなものが多いことを知っているから、気にする必要はないんだが……。
 いくら濡れるのに慣れてるとは言っても、わざわざこんな大雨の中に入るのも馬鹿馬鹿しいか。
 そう思って雨雲に背中を向けたんだが、その瞬間に頭に大きな雫が落ちて、広がっていたのか動いていたのからしい雨雲に包まれちまった。
 ……クソ、一度濡れたら雨宿りする意味はない。

「わ…と! なんだよ、結構降ってるなあ!」
「ぬるいな」
「なんか言ったか!?」
「ぬるいと言った」
「聞こえねえよ!」

 春が近づいてきてるとはいえ、今はまだ冬だ。クリミアは確かに温暖な地域だが、それにしてもこの雨は暖かい。
 いや、もちろん有難いがね。ただでさえ暗くなってきた上に雨で視界が利かないのは辛いところだが、そろそろ通いなれたからな。
 迷う心配はないし、ここまで来た以上は城を目指すとするか。
 一粒が大きいというより長い雨は、まるで絡み付くように全身を濡らしてきた。なんというか、妙に重い雨だ。

「ああ、戦場跡かー。雨のせいで錆の匂いがきついな」
「もう少し甘けりゃ血の匂いだな」
「あ? あんたもちったァでかい声で喋れよ! 聞こえねえって!」

 そりゃ、聞かせる気がないからな。
 わざわざ近くに寄って耳元で喋るヤナフに聞こえないのを承知で呟くと、俺はかつてナドゥス城だった瓦礫の山を見つめた。
 ここと、ここに程近いピネル砦では三年前に大きな戦があったんだ。
 クリミアは比較的戦後処理が迅速だった方だが、それでもそれは人が住んでるところに限られる。近辺の村から離れた辺りじゃなかなか難しいだろうさ。
 一応、遺体なんかの始末は優先的にしたはずだが、城がここまで潰れちまったら、中に埋まった分は……あまり回収できなかったかもな。
 一面に広がる泥と瓦礫、打ち捨てられたまま錆びた武器の姿は、一度だけ見た焦土と化したフェニキスを思い出させた。
 ……せめて、塩や油を撒かれなかったことは幸いだったと思う。指揮官はまだしもまともだったらしいな。それも、あのゼルギウスだったか。あいつの人選だったそうだが。
 今のフェニキスは鷺たちの再生の呪歌で少しずつ緑が戻ってきていると聞いたけど、それでも失われた命は還らない。

「おい、鴉王?」

 気がつくと、俺の足は泥の中に下りていた。
 こんなこと、今さら考えたところでなにも益はないんだがね……。
 濡れて張り付く黒衣の中の肌がまるでむき出しのような感覚で、やけに絡みつく雨がゆっくりと皮膚の上を滑り落ちていく。
 まるで、撫でられているようだ。
 違うな。この感覚は雨のせいじゃない。雨を慰めに感じるなんて、いつの間にか生きることに慣れてしまった俺の甘えなんだろう。
 思い出せ、と。
 おまえは赦されたわけじゃないんだと、この風景が俺に教えてくれているようだった。

「こら、無駄に濡れたら身体に悪りィんだから早いとこ城へ……って、なんだ!?」
「………冷たい?」

 濡れて落ちてきた髪をかき上げて空を見ると、鈍色の雲の様子が変わったわけじゃない。
 それなのに、急に落ちてくる雨の雫が冷たくなってきた。
 いかにも冬の雨に相応しい、凍りつくような冷たさに。

「うわ、やばい! 鴉王、行くぞ!」
「え……」
「なに呆けてやがんだ!? こんな氷みたいな雨に打たれ続けたら、いくらラグズが頑丈だって言っても風邪ひくぐらいじゃすまねえよ!」
「行くって……」

 どこへだ?
 急に、頭の中が白くなったようだった。
 俺は…俺は、なんでここに?
 刺すような冷たさになった雨が痛くて震えると、腕を引かれてぼんやり見上げた俺にぽかんとしたヤナフが急に厳しい顔になった。

「しっかりしろ! 若造のくせにおれより先にボケてどうすんだ!」

 ばさっと猛禽の翼が広がる。全身で屋根になるように俺を包んだ小柄なヤナフの姿が、どんどん見えなくなってきた。
 そういえば、日が暮れかけてたんだったか?
 その上雨じゃ、もう視界が利かない。
 でも、慣れた道だ。だから迷いは……。
 迷い? どこへ行くんだ?

「なんか…なんか、不味いぞおまえ。飛べ! 鴉王、ほらッ」
「痛い……」
「引っぱってんだからそりゃ痛いだろうよ! くそ、どうしたんだよ!?」

 かちかちとうるさいのが自分の歯だとなかなか気がつかなかった。身体が震える。
 ぐいぐいと何度も腕を引かれて、やっと動かそうとした翼は、まるで自分のものじゃないように動きが鈍かった。
 寒さで凍えたんだ。そうだ……こんな時は、絶えず動かしていなくちゃいけなかったのに。

「鴉王? 寒いのか?」
「……寒い……」
「馬鹿、おれだって寒いって! ああもう、自業自得だぞ、この甘ったれが!」

 小さな身体が俺を抱きしめて、翼を広げて雨から庇う。それで霞がかった意識に一瞬、光が見えた。
 なんだ? 俺は、どうした?

「くそ、やっぱ無理やりでも止めりゃよかった!」
「ヤナフ……?」
「おう、しっかりしろよ!」

 ぼんやりと呼ぶと、暗くても近い分うっすら見えたヤナフの顔が笑顔なのがわかった。
 寒いのに、一部が妙に暖かいな。その理由が、翼を広げて雨から俺を庇うヤナフが、俺の身体を小さな手でごしごしと擦っているからだということもわかった。
 なんで俺はこんなことをさせてるんだ? ティバーンの「目」に……。こいつが無事に帰れるよう、俺が庇ってやらなけりゃ困るのはティバーンじゃないのか?
 そう思った瞬間、鉛のように重くなっていた翼が軽くなった。

「おわッ!?」
「どうも、面倒をかけたようだな」

 側面から頭を中心に俺を抱き込んでいたヤナフを小脇に抱える要領で地面に足が付かない程度に下ろすと、翼を広げて風を起こす。
 俺はちょっと特殊な風の使い方ができるんでね。ベオクの魔道士の使う風魔法に近い力らしい。それで多少の雨風は吹き飛ばすことができるんだ。

「こら、離せ! ……ん? なんだ、こりゃ。あんた、便利なことできるんだな」
「千里眼の持ち主に褒められたってのは、もしかしなくても喜ぶところか?」
「馬鹿言ってんじゃねーよ。それより、行こうぜ。なんかヤバイだろ。ここは」
「……ま、俺もできたらそうしたいんだがね」
「あ?」

 それほど長い間打たれたつもりはなかったが、もう身体は冷え切っている。いくら恰好をつけたところで歯の根も合わないんじゃ、やせ我慢もいいところだ。
 ぴったりと寄り添ったヤナフの体温が有難い辺り、相当に不味い事態なのはわかったが、悪いことってのは重なる。
 頭半分俺より高く浮かんだヤナフに、言うよりも見た方が早いだろうと思ってちょいと足元を指差した。もちろん、俺の足元だ。

「な、なんだ、こりゃあ!?」
「気のせいじゃなかったら、誰かに掴まれてる気がするな。俺の目じゃもうそこまで見えないが、良いものか、悪いものかどっちだ?」
「……掴んでるな。二本だ。泥にボコボコ浮かんだ人の顔ってのは、あんたにとって良いものか悪いものかおれにはわかんねえぞ」
「腕だけじゃないのか。それは良くないな」
「ははは、今震えたのは怖いからか? 心配しなくても、今なら漏らしても雨でわかんねえぞ」
「はン、湯気でバレるだろ」

 殊更明るいヤナフに投げやりに答えると、俺はしばらく足を抜こうとしてみて諦めた。がむしゃらに羽ばたいて強引に飛ぼうとしても、張り付いたように離れやしない。
 これ以上もがいて膝でもついたら、足首だけで済まないんじゃないのか?

「外れねえか?」
「外れないね。あぁ、おまえはせっかく捕まってないんだから、触るなよ。共倒れになるのは莫迦らしい」
「でもよ…!」
「おまえのおかげでちょっとは頭が冴えてきた。どうやらここはなにか魔力みたいなものの磁場ができてるな。声の通りも鈍い。恐らく、ここからじゃウルキには声は聞こえない」
「!」
「俺は多分、鷺は別として今の鳥翼族の中じゃ一番魔力が高い。信じた方がいいぞ」

 俺をなんとかここから引き剥がそうとやっきになってるヤナフに淡々と言うと、息を呑んだヤナフがまたきつい目をして怒鳴った。つくづく鷹は無駄に熱いな。

「阿呆かッ! そんな面倒な説明つけなくても、誰が『鴉王』の言葉を疑うかよ!」
「そうか。それなら、なかなか忘れてもらえない肩書きも満更役立たずなわけじゃない気がするな」
「不吉な言い方するなって」

 あちこちで、奇妙な音がする。日暮れともなればさすがに千里は無理でも、獣牙族なみに視界の利くヤナフには俺には見えないものも見えてるんだろう。
 離れようとしない小さな全身に緊張がみなぎっているのがわかった。
 早いとこ自分から離れてくれた方がいいんだがな。……言わなきゃわからないか。

「ヤナフ」
「なんだ?」
「この鞄を持ってクリミアに行ってくれ。ベグニオンとデイン向けの書状も入ってる。まあおまえなら渡す先を間違えたりしないと思うが、一応気をつけろよ」
「自分で持っていけ。セリノス期待の外交官がそんな簡単に仕事をさぼれると思うなよ?」
「そのつもりはないが、まあどこかで追いつけるだろ。苦手な先があるならそこを後回しにすれば後から俺がそこへ行く」
「ぜんぶ苦手だ!」

 やれやれ、頑固だな。
 化身の力が満ちた小柄な身体がティバーンより赤みを帯びた光でぼんやりと包まれて、有難くないことにその光のおかげでどうやら妙な物音の正体の一つが見えた。
 これは……泥人形、か? 少し離れた先でいびつに傾いだ人型が数体、錆びた剣や槍を握ってゆらゆらと立っている。

「念のため訊くが、ここにベオクはいなかったよな?」
「あー、ベオクの成れの果てはいたらしいけどな」
「……成れの果てね」
「おう。泥人形に見えるだろうけど、中には骨が入ってるぜ。一部覗いてるのもいる。ベオクが血肉じゃなくて泥でも動けるってのは、おれもそれなりに生きてきたつもりだけど初めて知った」
「たぶんニアルチでも知らないな。第一、それなりに生きたもなにも、おまえはティバーンより三年ばかり上なだけじゃなかったか?」
「やかましい。尻に卵の殻をくっつけたまま王になったガキが抜かすな」

 酷い言われようだ。
 まあ……事実だから仕方がないか。
 爪先と指先からじんじんとしびれてきた。寒さのためだ。ヤナフの歯が鳴る小さな音が聞こえてくる。
 こいつに限って怖いってことはないから、やっぱり寒いんだろう。
 俺より身体が小さい分、不味いかも知れない。だが、あんなものが出て来たとなったらもう翼で雨から庇ってられないし、どうしたものかねえ?

「避けろ! 右!!」
「!」

 叫ばれて、自然に上体を左に倒した。動きに遅れた翼に熱が走る。粘ついた雨もろとも翼をかすめて斬ったのは、泥人形が握っていた錆びた中剣だった。
 クソ、足が使えないってのはどうしようもないな。

「ネサラ、化身しろ!」

 とうとう呼び捨てになったか。怒鳴るが早いか、鮮やかに化身したヤナフが近くまでにじり寄ってきていた泥人形を吹き飛ばすと、すぐに次の人形が見える。
 今度は槍だな。その向こうは……駄目だ。俺の視力じゃ見えん。

「こら、化身しろって!」
「できたらしてる」

 実は最初に避けた時に化身したつもりだったんだがな。
 腕にはめている王者の腕輪は沈黙したままで、なんの力も伝わらない。
 そのせいで逃げ遅れた翼に剣が掠ったんだ。大した痛みはないが、錆びた武器で受けた傷は危ない。後の治療が憂鬱だな。
 まあ、そんな痛い思いも生きていてこそだがね。

「くっそ、どこまで手のかかるガキなんだ、テメエは!」
「だから一人で行けと言っただろう。とりあえずがんばれるだけがんばってくれ。俺もできるだけのことはする」
「ああそうかよ!」

 さすがは鳥翼王の右腕だな。予想外に泥人形の数が多いようだが、次々に粉砕していってる。
 一応、元々が死体である自覚があるのか、動きは鈍いからヤナフ一人でどうにかなる気もしてきたが、せめて身の回りの連中ぐらいは自分で片付けるべきだろう。そう思って俺は翼に風を集めた。
 雨の中じゃ威力が落ちるんだが、贅沢は言ってられない。それよりも効果があればいいんだがな。
 放ったのは疾風の刃だ。まるで古い野菜でも切ったような音がして泥が崩れ落ちる。
 足元は相変わらずがっちり掴まれていて動けないし、今の俺に出来るのはこの程度だ。自分の足元に風切りを使えたら良かったんだが、さすがにそれは無理だった。

「ネサラ! 後ろ!!」

 参ったね。後ろはどうにもできない。ただ勘だけで膝を折ると、さっきまで俺の上半身があったところを重いものが薙いだ。戦斧だ。

「ネサラ!!」

 ついでについちまった左手ががっちり掴まれる。泥というより、もろに生身の人の手の感触だ。

「ヤナフ、今のうちに鞄を取ってくれないか?」
「取るか、馬鹿!!」

 説得は無理か。まあ、ニアルチもいるしな。もう一度同じ書類が必要になってもどうにかするだろうが、それよりヤナフを帰す方法が問題だ。この分じゃ自分から逃げるってのはまずない。

「かといって動けないしな……。いてて、こら、離せ」

 起き上がろうとしたのを許さないとでも言いたげに、俺の腕を掴む力が強くなる。もしかしてこの中に本当に生きた人間が入っていて俺を掴んでいるのかと思ったが、そんなありえない可能性はさっさと捨てた。
 いや、待てよ。骨に泥がくっついて武器を持って襲ってくるって状況がすでに現実離れしてるんだ。思い切って手を突っ込んで相手を掴んで引きずり出すってのも……。

「そんな上手くは行かないよなあ」

 参ったな。俺を掴む手の下にあったのは、やっぱり泥だ。しかも、奥まで埋めてみた手も動かせなくなった。
 これはもしかして新しい底なし沼かなんかなのか?

「ネサ…ッ」
「こっちを見てないで自分の身を守れ。残念だが、もう疾風の刃も使えそうにない」
「なにやってんだ! ちょ…誰か! ってか、ウルキ! 王!!」
「ここからじゃ聞こえないと言ってる。せめて雨雲を抜けてから叫べ」
「畜生ッ! ティバーン!!」

 気がつけば、少なくとも近くにいた泥人形どもは全て倒れてた。さすがにヤナフは強いな。
 だが、震えも止まり始めた身体がそろそろ限界を訴え始めてる。
 死ぬつもりはないが、これは不味い。元老院の連中がいなくなって、本当に我慢が効かなくなったらしい身体が倒れたがるのをどうにか堪えて、俺はへし折るつもりかと訊きたいほどの力で握りこまれた手の痛みに呻いた。

「く…っ」
「痛いのか!? すぐ外してやるから!!」
「触るな! おまえまで捕まったら誰がこのことを知らせるんだ!?」

 化身を解いてさっきよりまた引きずり込まれた俺のそばに降りかけたヤナフを怒鳴りつけると、寸でのところで止まった。
 よし、まだ冷静だな。

「この雨雲さえ抜ければ、多分声が届く。ウルキに知らせろ。それからすぐに帰れ」
「そんなこと、できるかよ…!」
「やれ。べつに俺を見捨てろって言ってるんじゃない。助けるつもりがあるなら、誰か連れてこい。どの道おまえだけじゃどうにもならないだろ」
「ウルキには知らせる。それで充分だ」

 強情だな。それでなくてもこの雨の冷たさだ。お互い、もう冷え切ってるのに。

「とにかく、ちょっと待……」

 冷たい手が慰めるように俺の翼を撫でて離れかける。だが、その時に俺の耳はまた嫌な音を聞いた。

「おいおい…どうなってんだ…!?」
「まあ、元が死体だからな。死なないんだろうさ」

 俺の言葉を否定しないってことは、当たりか。崩れたはずの泥人形どもが、またもぞもぞと形を作り始めたらしい。
 さて、この化け物への対策はどうすりゃいいのか。どうやら俺は話し合いの場に出られそうにないな。

「ヤナフ……」

 俺の肩を掴む手に力がこもる。行く決心をした。それが伝わって、ほっとした。
 この奇怪な現象がこの場だけとは限らない。ティバーンの片腕であるヤナフが王ではなくても民を預かる立場だってことを思い出したことが、本当にうれしかった。
 俺のことを若造呼ばわりできるほど長く戦士をやってるんだ。腹さえ据わったならもう心配はない。
 そう思って痛いを通り越して感覚がなくなってきた右手の指先に震える息をかけたところで、一度離れかけたヤナフの腕が俺を包んだ。
 驚いて怒鳴りつける前に目の前で閃光が弾ける。

「そこの二人、動くな!」

 ヤナフが俺を抱え込んだところで、耳に聞き覚えのある声が届いた。

「だ、誰だ…?」
「じっとしてろ!」

 クソ、声が出なくなってきた。ヤナフの身体も冷たいが、それよりもいきなり明るくなった視界に驚いた。
 なんだ? 炎か!?

「動くな、ついでに燃やされちまうぞ!」

 驚いてヤナフの腕から抜け出そうともがいたところでもう一度怒鳴られて、俺はなんとか首をひねって辺りを見た。
 端に金を帯びた真紅の炎……。魔道士の使う炎魔法だ。この雨の中でこれだけの威力を出せるのは、並みの使い手じゃない。
 無意識に動かした左手が上がった。今の炎の魔法か? 俺を掴んでいた手が消えてる。
 それでも立ち上がらなかったのは、すぐそばまで重い蹄の音が迫っていたからだ。

「頭を下げよ!」

 命令することに慣れた威厳のある声に従ったヤナフに押さえ込まれるようにしゃがみこむと、鋭い風の音が頭の上で聞こえた。黒い馬が俺たちの頭上を跳び越したからだと知ったのは、消えかけた魔法の炎に照らされたその男が馬上で鮮やかに剣を振るった姿が見えたからだ。
 髪の色まではわからないが、馬と甲冑が黒いのと端正なヒゲ面なのはわかった。
 あれは確か……。

「レニング卿!」

 そうだ、確かそんな名だった。
 ヤナフの呼びかけに軽く逞しい片手を挙げて応えると、クリミア女王の叔父、勇名高い黒騎士は握っていた大振りの剣で二体の泥人形を一度に斬り捨て、血振りした剣を様になる仕草で鞘に収めた。
 待て。ちょっと、待てよ。
 どうしてこんなところにクリミア女王の叔父が現れるんだ?

「おい、助かったぜ。ほら!」
「え……?」

 さっきとは違って優雅にこちらに歩み寄る黒い騎士を呆然と見上げていたら、ヤナフががくがくと俺を揺さぶって反対方向を指さした。
 そこに炸裂したのは魔法で生まれたいくつもの炎の玉だ。これだけ明るくなれば、さすがによく見える。
 その炎に灼かれて、まさに「湧いて出た」という表現が相応しい様子で蠢いていた泥人形どもが次々と崩れ落ちて行った。
 凄い威力だな。いや、魔法もそうなんだろうが、もしかしたらこいつらは炎の魔法に弱いんじゃないか?
 自分で生んだ炎にあかあかと照らされながらこちらに歩いてきた相手にも、見覚えがある。
 おいおい、まだ安定には遠い国の重鎮が二人してこんなところでなにをやってるんだ!?

「おお、これはなんという偶然! そちらにおわすは鳥翼王の誇りし「目」の君と、深き宵闇の化身たる鴉王様ではありませぬか」
「お…おう、相変わらずだなあ、おっさん」
「……おまえらの王じゃあるまいし、他国の有力者の名前ぐらい覚えておけ。あいつはクリミアの道化文官、フェール伯ユリシーズだ」

 魔道士にしてはがっちりとした身体つき、金色の巻き毛と上品なヒゲをたくわえたベオクの魔道使いは、まるで城の広間を歩くような足取りでこっちに近づいてくる。

「なんと、美しい瑠璃色の御髪までそのように泥に汚れて…! ささ、どうぞお手を。空に在るべき鴉王様ともあろうお方が、いつまでもそのように泥の中に座り込んでいるのは相応しくありますまい」
「うるさい。わかっていてからかうな」

 ティバーンだけでなく、鷹はこの男が苦手らしいな。あれだけの数の化け物に囲まれても一歩も引かなかったくせに、大仰な身振りでそばに来たユリシーズに気おされたようにヤナフが離れて、望んでもない手が差し伸べられる。
 大体、目が笑ってるんだよ。クリミアで最も俺と接触が多いのは恐らくこの男だ。
 これで一つからかいの種を与えたのが口惜しい。

「あ」
「!」

 だが、腹立たしいことに手足に力が入らない。どうしてくれようかと思った時に、ふと頭の上からふわりと暖かいものがかけられた。
 なんだ? マントか?

「怪我をしているようだな。それに、冷え切っている」
「………」
「殿下!」

 黒いマントが頭から被せられて、目の前に片膝をついて俺の頬に触れたレニング卿が心配そうに覗き込んでくる。
 さすがにユリシーズも驚いたんだろう。そりゃそうだ。この男は他人のために泥の中に膝をついて良いような身分じゃない。
 ラグズならともかく、ベオクの王族ってのはそんなもんだ。

「鴉王殿?」
「おい!」

 視界が揺れた。ヤナフが慌てて戻った気配がしたが、もう目を開けているのも厳しい。
 そのまま崩れそうになったところを逞しい腕に支えられて、一瞬気を失いそうになった。

「失礼」

 なんだ……? 抱えられたのか?
 極上の絹のマントに包まれたまま、翼を避けて背中と膝の裏に腕を入れて持ち上げられて、形の良い顎が見えた。
 おいおい、本当に失礼だな。普通こんなことは相手の了承を得てからじゃないのか?

「ネサ…じゃねえ、鴉王、大丈夫か!?」
「かなり弱っているようだ。ユリシーズ、話は後にして宿まで早駆けするぞ」
「はッ、それでは千里を見渡すという……」
「だーッ、まだるっこしい! ヤナフだ!! あんたはおれに乗れ。宿に着くのは早い方がお互いにいいだろうが!?」
「は…、いかにも。それでは失礼をば……」
「うるせえ、トロトロしてっと鉤爪で掴むぞ!!」

 冷え切った身体に落ちる刺すような雨も辛いが、それよりも今は声変わりしてんのかと疑いたくなるようなヤナフの怒鳴り声の方が辛い。
 頭に響くんだよ。鷹ってのはどいつもこいつも、少しは静かにできないのかと言いたくなる。
 それから俺は抵抗する気力もなくレニング卿の馬に乗せられた。
 一度片腕で担いで、俺ごと軽々と馬に乗った腕力にも驚いたが、悪名高い俺を平気で懐に抱えやがったのにも驚いた。
 警戒心がないのか? それとも、自分の力にそれだけの自信があるか……。
 どっちなのか少し考えたが、やめた。頭痛がしてきて目を閉じると、遠慮のない騎士の腕が俺を横抱きに支える。

「しばし揺れますが、ご辛抱を」
「……お気遣い、痛み入るね」

 俺はお姫さんかよ。笑いたくなったがもうそんな力もない。
 生真面目な台詞に厭味を込めて言い返すと、小さく笑った気配がして馬が走り始めた。
 こっちは具合が悪いってのに、遠慮のない走らせ方だ。
 ……でもまあ、とりあえずはティバーンの片腕を死なせずに済んでよかった。
 それだけで本当にほっとした自分がおかしいが、本音なんだから仕方がないな。



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